不遜ですが…

琵琶湖ホールにて山海塾「うむすな」鑑賞。
大変素晴らしかった!勇気をもらえた!いろんな自分の中の事に確信を持てた!
と、!マーク3連発を発するほどにその世界観、選ぶテーマ、構成。
全てにおいて久しぶりに「いいもの観たぁ〜」という感じだった。嬉しい。
ただ、これを世界ではコンテンポラリーという括りにしてしまうのだろうか。
それは違う気がするなぁ。
80年代半ば、山海塾がパリを拠点とし、全世界に向けてその存在を示していた頃
確か彼ら(なのかどうかはわからないが)は「BUTOH」ということになっていたはず。
いつのまにコンテンポラリーに?…ま、そこまでこだわるとこじゃないかもだけど。
スゴいんです。確かにスゴいテクニックなんです。
でも、いわゆるバレエテクニックは微塵も使われていない。でもスゴい。
身体のコントロールという点において、もんのすごいテクニックを有しているんです。
これは肉体を使って何かをしている人間でないと良くわからないかもしれないと思う。
あまりにもスムーズ過ぎて見過ごしてしまうのではないだろうか。
いま何気なく目の前で展開されている動きがどこに起因する動きなのか。
こんなにも素晴らしいものが展開されているのに数回、客席が弛緩したことがある。
そして、そこはやはりダンサーに若干のほころびがある箇所なのだ。
こんなにすごいカンパニーでもそうなのね〜。ようかいのせいかな。
ダンサーが振付師である天児氏の意図をどこまで理解し体現し、クリエイトしているか。
それによってやはり見え方がずいぶん違うので難しいところだなと感じる。
約1名の方がとてもとても素晴らしい。
もう1名の方、素晴らしいけれど「自分」でありすぎる。
もう1名の方、素晴らしいけれど「自分がなさすぎる」
そのほかの方々、素晴らしいけれど可もなく不可もなく。
やはり作者としてはダンサー自身にもクリエイトを求めるはず。
そしてダンサー自身もクリエイトしようとするならば作者の意図をどこまで深く理解し、
読み取れるかと言うところにかかっているのだ。
理解するとは言っても違う人間なのだから難しいとは思うのだが。
寝食を共にすることでそれができるかといえばそうではない気がするし
それでもせめてそれくらいすれば幾何かは理解できるかもしれないとも言える。
感性の共有、感性の類似性で切ってしまっては元も子もない。
一人一人がクリエイターでなければ相乗効果は生まれない、と思った舞台。
レベルの差は置いておくとして、その世界観、テーマ、動きの派生するところ。
性別の境なく、イキモノとしてのたたずまい。動き。立ち昇る精神性。
たいへんふそんですがちかいものをかんじましたまる。
いやぁ。金沢にも観に行こうかしらねぇ。