罪悪感のようなもの

昨日は新大阪でリハーサル。
着くなりYちゃんが「今日、2時46分に黙祷を…」といい、
私もそのつもりだったので「うん、もちろん」と答えると
「ここの受付の人がね…」と。
よろしければ黙祷をしてくださいという要請があったそうです。
正直、へぇ〜って思ったけれど、ま、当たり前かもしれないね。
でも行政の杓子定規っぽくは思えなかったし、良かったです。
ということで時間を気にしつつリハーサルをしていたのですが
「なんか合図とかあるんかしら?」と言ってたらばキンコ〜ンと鳴りました。
みんなで東の方向を向きつつ黙祷を捧げました。
きっとその時間、日本中あちこちでこれが行われているだろうなと思いながら
生かされて在ることの感謝と他人事としてはならない戒めとを胸に秘めつつ。
ほどなく後発組が到着。
一通り踊った後、休憩で喋っていた時には自然とその話題に。
ここ数日、震災関連の報道がされていますが、そう、風化させてはいけないけど
度重なる当時の映像を観るのもつらいね…という話になりました。
当事者でない私達でさえそうなのだから、震災に遭われた方は尚更でしょう。
それに身内に限らず親しい方を亡くされた方の寂しさはいずこも同じ。
納得できる死というのはなかなかないだろうと思いますし。
忘れないことも大事だけど、忘れることも大事、な気がします。
辛いことは忘れてもいいように忘れることができるように人間は創られていると
そんな風に思ったりもします。
震災の時には(多分大多数の舞台関係者が思ったであろう)自分の存在意義を
疑問に思いましたし、とても心が折れました。余りの自分の小ささに。
「自分が出来ることはたかが知れている」のはもっともですが
何とも言えない居心地悪さのようなものを感じたのは確かです。
でもそれを考えていても埒が明かないのだから、とりあえずは自分だと。
自分を生きてこそである、と。そう思い直したりもしました。
それに極々個人的なことが実は普遍的なことであったりすることにも
最近気が付いたので、とことん自分というものでいこう、とも。
ただ、あれがきっかけで「祈る踊り」というものへの考え方も
少しだけ違ってきているような…はっきりとはわからないのですけれど。
そういえばドキュメンタリー作家の森達也さんはじめ4名の方で撮影をした
「311」という映画が話題を呼んでいますね。賛否両論で。
観たいような観たくないような…ですが、やはりその映画を撮ることになった
モチベーションも「罪悪感のようなもの」だそうですよ。ふぅむ。
ま、だから「現実を見つめろ」という作風なのかな〜と思ったりしています。
たぶんかなり生々しいだろうと思われます。
でも実際は言語を絶するほどのもののはずですし、切り取られたものだけを情報
として捉えている自分にも腹が立ちますし…。
TVのこちら側でしか体験していないこと自体が罪悪感の元だったりもあるので
観ようか観まいか揺れています。
どうだろうなぁ。森さん、好きやけどな。