『pina 踊り続けるいのち』

先週、スタジオに衣装を持ってきてくれたKちゃん&Bちゃん。
相変わらずの賑やかさと元気さで、みんなもホッコリ和む。同窓会っぽい(笑)
311の話からKちゃんが「レイさん、東北で踊ってき」と言うのだけれど
ま、それはそれ、やはりいろいろありましてね…という話を展開。
祈る気持ちに嘘はなくても、やはり今はまだ…という気がしていること、
あくまでも観客を前にしていることを意識した創り方である事、等々
自分が思う理由を滔々と述べ、やはり今は「東北そのものには不必要な存在」
と思っているから…てなことを話しました。
私が踊ることでガレキが一瞬のうちに片付くなら即行きますよ。ホンマ。
でもそんなことは無理やしね。悲しいけど。せめて寄付するわ。
そんなこんな話をしつつ、Kちゃんが「こないだピナ、行ってきたで」と。
あ!そうやった。そんな映画が公開される情報は知ってたけど具体的にいつとか
どこでとかは眼中になかったわ〜。で、どこ?「ブルク」…無理かも。
そんな情報を心の隅に抱いたまま帰宅。新聞の映画欄を確認。
やってるやん!『Pina 踊り続けるいのち』京都駅(裏)イオンで。
行こう、行きたい、いつ行こう?
ということで、週明け火曜日にきなこちゃんをトリミングに出しついでに
行ってきました。ピナ…ヴッパタール舞踊団を率いていたピナ・バウシュ
タンツテアターの祖とでもいうべき存在。
初めて見たのは…今から25年ほど前だったかしら?京都に来たのよね。
演目は「カーネーション」はっきりいって退屈だった。当時の私には。
身体を動かしまくること、すなわちテクニック的なことが重大要素だった頃。
ピナバウシュ(と、そのカンパニー)はすでに超越していた。
それぞれのダンサーが卓越したテクニックを持っているのは見て取れる。
でも、それが売りなのではなかった。その世界観。静けさ。強さ。エグさ。
その後、これこそがと思える代表作と言っていいと思う「春の祭典
「コンタクトホーフ」や「カフェ・ミュラー」など。
こちらも歳を重ね、ピナの面白さ、凄さがわかる歳になった。
同じくヴッパタール舞踊団の年齢も上がっていく。若い団員も多くなった。
いつもいつも土の上で、または水の上でやるんだなぁ、と思っていた。
そこの意味が良くわからなかったけれど…いや、今でもわからないけれど。
なにか彼女の魂の奥底に外せない約束があるのだろうな。
惹きつけられるのは彼女の強烈なまでの孤独。
カンパニーが踊っていても、そう、饒舌すぎるなぁと思うところもあるし
もしかしたら「苦肉の策?」と思うところもないではないけれど
その強烈な孤独の影はどの作品にも投影されている。
そういうもんなんだろうな、きっと。
その孤独に触れたとたん、映画を見ながら涙あふるる。うるるる。
ダンサーも(あんなに素晴らしい人たちでも)やはり踊っている人と、
そうでない人がいる。容易に見破れるところが怖いですわ。逆もまた真なりで。
そして、踊りには余白が必要なことを再確認。
結局「動き」は動きでしかなく、動きまくるほどに無意味になっていく。
余白のうまみ。波動のさざなみ。確かに動きまくるのは面白いけれど飽きる。
今回、とても面白かったのは「カフェ・ミュラー」で待ち合わせをしている
老いた男女(の役柄なだけです。たぶん実年齢はそこそこです。)の佇まい。
そうか、こんなだったけ?と思いながら。その初々しさ。恋の為せる気分。
実に、実に見事だった。
それに反して、かけ離れていく若いダンサー達との距離。ピナが創っていない。
そうか、創作者自身の年齢もかなり影響することがあるのだなぁと感じる。
いや〜ただの感想になってしまってごめんなさい。
素晴らしかったですが寂しくもありました。
だってピナはもういない。もう作品が生まれることはないのですから。