言葉を操る

詩集2冊。

原発難民の詩

原発難民の詩

一冊目はタイトル通り著者が原発難民となって仮設住宅に暮らしながら発表されたもの。
直接的な言葉の数々が身体に食い込む。
立ち入り禁止の柵の前でうろうろする自分がいるような感覚に襲われた。
読むだけ、見るだけ。当事者ではないという罪悪感が頭をもたげる。
明日

明日

もうひとつは作者の周辺のことが詩になっているが、最後の章はどうやら
東日本大震災を受けての作であろうと思われる。
詩人にもプロとアマという棲み分けがあるのだろうか。
資格が必要のない世界のこと、自称しさえすれば今日からあなたも詩人、と
渡辺さんは書いていたな。
いろんな人のいろんな詩を読んできたけれど、やはり明確なものがあるような気がする。
言葉の操り方といえばいいのか。
ときおり突拍子もない飛躍の仕方をする詩があると思えば
日常の延長の繰り言を否応なしに読ませられる感覚に陥るときもある。
それらはどっちもどっちで、ついていけない時もあれば癒されることもある。
自分の思いを代弁してもらえたと思う時もあれば、まるで異次元なこともある。
結局は他の芸術作品と同じで好き嫌いなんだろうかな、と思う。
その意味で言えば私は突拍子もない異次元のものが好き。
その視点の高度や、スピードや、深度が自分とは違えば違うほどときめく。
こういった詩や短歌や俳句を詠む(または編む)人は尖がっていてほしい。
こちら「読むだけ」なので、戯言も甚だしいけれど。