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被害は甚大すぎて、遠くからでも、いや遠くだからこそ簡単に「復興」なんて
言えないよなぁというのが今のところの私の正直な感想です。
でも、何か自分にできることがあれば積極的にやりたいと願っているのですが。
でもそこにはエゴがあって、自分を打ち捨ててまで、とはならないのが苦しい。
当事者ではないという変な自己卑下みたいなもの。
すみません、という気持ち。
少々の義援金や読まなくなった絵本を送るプロジェクトに参加したりが関の山。
そんなことを日々考えるでもなく考えずにはおれない状況ですが。
よく目にするのは「忘れられていくのが怖い」というものです。
確かに自分に直接ふりかかったことでなければ打撃は受けようとも傷は浅い。
したがって癒えるのも早い。心はさておき日常に返るのも早いものですが。
でも深く傷を負った人たちは、たぶん永遠に癒えはしないのですね。
残された人は、何によって癒され立ち上がれるのだろう。
ある種の諦めもあるでしょうし、死者の分まで生きるという生を背負うことも。
歌手クミコさんの「私は青空」という歌の歌詞(作詞:覚和歌子さん)に
「祈りの言葉に 私は ほどけて とけてく」というくだりがあります。
この歌は「突然、天に召された私」からの視点を歌詩にしたものです。
モデルになった方がいらっしゃるとのお話でした。
死んだ側のことは永遠にわからないけれど「祈りの言葉でほどけて」くだされば
祈る側としてはとてもいいなぁと思ったりします。理想です。
けれど、残された側はどうやったらほどけ、とけられるんだろう?
先日、ほぼ日のイトイさんはじめスタッフの方々が被災地に出向かれました。
何をされたかと言うと、地元の方たっての願いで「お墓詣り」をされたそう。
そこは火葬が追いつかなかったので土葬になった地域でした。
そして途中までは故人に名前があるのだけれど、ある地点からは名前もなく。
もしかしたら弔うべき方も一緒に流されてしまったのでしょう。
でも、その人たちも11日の午後2時頃までは確実に生きていた。のに。
身元確認をする方もされる方も分からなくなってしまった。痛ましい。
忘れないでほしいという心の叫びは死者からのものだろうか。
それとも生き残った私達が叫んでいることだろうか。
もし残ったものが叫んでいるとしたら、その心をくみ取って癒す術は
一体なんなのだろうか、と、そんなことをとりとめもなく考えている近頃です。