わかったこと

晩ごはんの時間帯、女子フィギュアを見逃しているのに気がつかず他局の番組を
観るともなしに見ていたら9.11の映像が流れた。
一番衝撃的なシーンはなかったが既にビルから黒煙が出ているものだった。
色々な想いがよぎる。
それを題材にして作品を創ったこと。
当事者ではないという一種の罪悪感をずっと抱えている事。
その感覚は1.17であれ3.11であれ、同じだ。
京都に暮らしていた自分は直接的な被害はほぼ皆無だった。どれも。
当事者ではない自分がそういうことをテーマにしてよいのかとも思うし
気持ちに嘘はなく、祈りを形にしたいとの思いを持ち続け、それは本当だけれども
単なる自己満足ではないのか、それ(自分の思い)がどうした、とも思っている。
けれど、たまたま見たテレビで色々想いを巡らせているうちに
「当事者だったら、とてもじゃないけれどもそんなことはできないだろう」という
いまさら〜?な感覚に支配されていた。当たり前だ。
当事者でないからこそできる、ということがあったのだ、と。
だから何をしてもいいということではないのは重々承知している。
代弁と言うのもおこがましい。
そういうことではなく。
自分の祈りたい気持ちをどうにかして形にと思い、それが作品と言う形になれば
「自分が嬉しい」のだということ。
真摯な気持ちで向き合いつつ、やはりそういう作品を手掛けたい。
そんなことを再認識できた日。