死生観

ドキドキぼーいず『生きているものはいないのか』@劇研。

ナゴコンにも来てくれた西村さんとねむり姫からのお付き合いガトーくんが出演。

それにユニット美人の黒木陽子さんも出演されているので楽しみに出かけた。

20人以上の人間が謎のウイルスによってバタバタ死んでいく不条理劇。

天井から吊られている幕に芝居が始まるまで写真が映っていた。

芝居が始まるとその幕が(一定幅、間隔が空いている)ちょうど微妙な隠しになって

いい感じの演出だと思った。

さて内容は、本当にどんどん人が死んでいく「だけ」の芝居で、時おり役者の個性が

前面に出されているところを笑っていいのか笑っちゃいけないのか。

それに死ぬとき、みんな何かしらの動き(謎のウィルスは自分の制御が利かない風な)

をするのだけれど人によってはコンテンポラリーダンスの動きだったりもして

それが私自身には余計に感じたところ。

それ、いらん。

やっぱりそういうのは我が出るというのか、動いてる私、ほら(自慢)という風に

見えてしまう。これは好き嫌いに関係ないと思うのだけれどどうだろう。

たまたま私が踊り畑だからそう思うだけなのか。誰か解説して欲しい。

つまり死んでいく時にそんな表現になるだろうか、と。

もちろんフィクション。

わかってるけど。

そうだなぁ、その辺りなのかもしれない。みんな軽く死ぬんだよね。

表現としてはバタバタする人もいるしスマートな人もいるけれど。

あ、この人は踊り(の訓練)をやってるな、と思う人ほど踊りすぎる。

そこじゃないよね。アナタが踊れるかどうかは関係ない場面。

でも、もちろんそれは演出なのだ。

まずいのは本人でなくて演出家の考え方、見せ方なのじゃないかと思う。

こちらが深読みして考えると、確かに人って意味もなく死んでいくことがある。

それも突然。奪われるようにして。そしてそれは生きていることに意味はあるのか

という哲学的とも思える思考につながるものだと思うけれど。そこまで考えた?

一番最後に映像で東日本大震災の映像とか、そういうものが写された。

だから演出の描きたかったことはわかる気がする。

人って大量に、意味もなく、突然死ぬことがある。

でも、実際に行われていることがもう一つそこへつながらなかったんだよね。残念。

別にシリアスがいいとは思わないけれど、人が一人死ぬ、ということは簡単じゃない。

なんだかその辺が思いとは裏腹に浅かったような気がして惜しい。

嗜好の問題かもしれないけれど。

「人が意味もなく死ぬことはある」けれど、その人の人生に照らし合わせたときには

その人の人生には意味がある、と思うから。

そのあたりの軸足の置き方かな。色々惜しかった。伏線が回収されていなかったり。

それに年長の人(明らかに演出より先輩の役者)に指示出しにくいのはわかるけど

丸投げしていいところといけないところがあると思うよね。

これ、私も気を付けようと思うところ。

やっぱり最終的にすべてのデキに関わってくるんだ。ぶるぶる。

演出家は作品に対する、または人生に対するポリシーが必要。と思う。

 

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