視えるのよ

迷走しながらの作品創りだけど、まだビシッときていないところがある。
やわやわと輪郭が見え始めている気もしつつ、でも「これ!」というには少し違う。
アキもゴロゴロしてるしねぇ(苦笑)お互い産みの苦しみですな。ガンバロー。
最近、スタジオの縦横を反対にして練習し始めた。
少しでも長い辺を横として使いたいがために。それでもなかなか足りないんだけど。
今日はMYさんの足首の調子が悪く、本番を控えてらっしゃるので遠慮してもらい
私の代わりに見てもらう事にした。
当然いつもは中に入って踊っている人なので、どういう風に見えるんだろう?
終わってからみんなして円陣を組んで座り、意見を聞く。
「ここはもっとこうすればいいなぁっていうのがわかった」ことを基に、あれこれと
みんなに優しい語り口でアドバイスをくれる。
みんなも私じゃない人からの意見は新鮮で、おまけに信頼も篤いMYさんなので
真剣に聞き入っている。もちろん私自身も自分が独りよがりに見えているのではない
事がわかってホッと胸をなでおろしたわけだが。
こうして当事者である誰かが客観的に見るというのはイイこと。
来週も誰かに見てもらおうっと。
それはそれとして。今日は自分も踊りながら出番を待っている体で袖の位置から
みんなが踊っているのを見ていたのだが。
う〜ん。視える、視える。視えますぞ〜。
何を考えながら、または考えないで踊っているのか。丸見え〜。
表現しようとしている人、注意を忠実に身体に落とし込んでくる人、今は練習だと
五割の出力の人。
もちろんすべての場面においてではない。それらはクルクルと入れ替わり現れたり
潜んだりする。でもその意識のありどころは明白。面白いもんだね。
もちろん、そこは自分も戒めつつ。
お客さんは踊っている人ばかりではない。だから却って顕著に理解が及ぶ。
感覚が鋭いのだ。なまじっか踊っている人より。
踊る人は良くも悪くもアラも見えるし、テクニック的な出来を見てしまう。
でもそうじゃない人は踊りの向こう側にあるものを見ようとし、また感じる人だ。
嘘は嘘のまま、本気は本気のまま受け取られる。
作為は作為として映り、そこに感動は決して生まれない。怖い怖い〜(苦笑)
感動させようなんて、そんなの無理。そんな計算は通用しない。
踊るほうはとにかく全身全霊でやるしかない。