創作のしっぽ

この前から芭蕉精の練習をしていて色々と思いを巡らせることが多い。
この作品は自分が踊りを再開してからの想いの丈をカタチにした処女作なので
とりわけ思い入れが深いし、自分自身の代表作と言ってはばからないものでもある。
けれど年月を経て、こちらも変化する。しているのだろう。
その後にも「ありのままで」という、いわゆる自己表現というものでは、芭蕉精とは
また違ったアプローチであり、等身大の作品を創作できた。
芭蕉精は「憧れ」であり「理想」であり「思想」だ。
けれども冷静になると、よくもこんな大上段からの作品を創ったわね、とも思う(笑)
創作当時は自分自身が「宿神」となることを目指すという立ち位置で創ったので
当然ながら上から目線であるという感覚は全くなかった。
自分が体現したい、と思うことそのものだけをカタチにしたつもり。
それに元になるお話があったので、ある種のストリーテラー的な要素を兼ねて
いわゆる「見世物」に仕上げる点にも留意した。
全方向仕立てでなく、ある方面にむかって踊っているという点で既に見世物だ。
それでも精神は気高く。「柱を通す」ための「依代」としての「踊り」を。
そんな風に考えつつ、外(観客)に向かって踊ってはいるけれど、自分の頭の上には
宇宙が拡がり、風が起こり、足元には大地が広がる。
草花は芽吹き、光を抱き、地球を抱く。
この世の争いに心を痛め、また、それを現実として(人間たちに)見せる。
…大上段(笑)
T先生がおっしゃった7の成就、が過ぎ、まるで憑き物が落ちたかのように芭蕉から
遠ざかった時期があった。
その間に「ありのままで」は出来上がり、その等身大さ加減に自分が癒された。
自分が生まれ直すための作品として、自分でも納得できる踊りが出来た。
そしてそこからまた数年。再度の芭蕉精である。
はじめは戸惑った部分も多かったけれど徐々に感覚が呼び起されている。
けれどもそれとはまた別に、こういうものが創りたい、というものも出てきた。
それがソロなのか、ある程度の人数を必要とするものなのかはわからない。
たまたま筋トレ主宰の石井さんがブログに書かれていたことがマッチしたので
抜粋して掲載させていただく。


石井NP日記
2014年6月7日 流路 より

(略)
私たちは自分だけがただ、流れ星みたいに

未来へ未来へと向かって消えていく。

(略)
時々、音楽を聴きながら

自分の過去の物語を映画のように思い出して

それが意味のある物語だったと考える

そういう作業が

「人生」の充実を作ることもあるんだろう。

物語は、それが人の胸の中で紡がれてはじめて

物語になるんだろう。