真意

エガちゃんが略式起訴以来、初めて地上波に復活したという、その番組で
我が意を得たり!と膝打ちすることに出会った。
市川海老蔵主催のABKaiにナイナイの岡村君がオファーを受けて歌舞伎に挑戦という
趣旨の番組だったのだが、ひととおり手ほどきを受けて演技を披露した岡村君に対して
海老さまが「なんにもないね」と言い放った。
どんな初心者でも下手は下手なりにその人なりの「何か」というのは醸し出される
ものだが、岡村君には一切それがないと。無味無臭だと。
当然、時間を過ごす退屈さだけで「なんにもない」
当の岡村君は普段の器用さはどこへやら、いや、器用なのだと思うのだ。
数日でそこまで仕上げることができるのは器用ゆえだろうと思う。
でもその器用さがアダになっているのかもしれない。
「こなせる」だけではダメで。「こなせる」からといってそれが踊りかというと
そうでもなくて、とそんな話をしていたのではなかったが見抜いていたとは思う。
この辺りただのボンボンかと思っていたが、やはり総家。
それなりの筋の人なのだなぁとちょっぴり海老さまを見直したのだった。
そして、それは私がみんなに求めていることでもあると思い直した一瞬だった。
振付というか、作品を手掛けることになって以来、自分で踊るだけじゃなく
皆さんに振付をするという、なんだかエラソーにも大層な事態になっていて
そのことは今でも居心地が悪いのは相変わらずで、才能のなさも否めないが
少なくとも周りの人が一緒に舞台をと言ってくれる限りはそれに何とかして
お応えせねば、という気ではいる。
ワタクシ振付すると「好きに踊ってね」とつい言ってしまうのだ。
ダンサーはそう言われると戸惑うのだという。
これは「こんな私が創っててゴメン」とか振付自体に自信がないからゆえの弱気発言
なのだと自分では思い込んでいた。
もちろんそれもある。でもそれ以上に「自由にやってほしい」と思っているのも事実。
創る人は確固たるイメージを持っていて、そのイメージにのっとって創っている
と思われているようだ。うん、確かにそんな場合もある。
でも自分で描いた絵なんか大したことない、ともどこかで思っている。
それよりもやはり自発的に考え、創っていってもらうほうがうんと良い。
みんなの引き出しから出してきてくれたものを観たい。
言う通りになんか動かれても…というのは言い過ぎか。
もちろん振付通りに、というのは大前提。その上での創作を求めたい。のだ。
そうじゃないと「動いているだけ」の無味無臭になっちゃうもんね。
かといってハチャメチャも困るし、方向違いに独走されても困るけどね。
とりあえず、一通り終わったらそのあたりの演出をつけていこうと思う。
まずは、覚えて。間違えずにね。