粋人

清談 仏々堂先生

清談 仏々堂先生

文化と言うものは経済活動から程遠く、生産性としては著しく低いものばかり。
すなわち人々の生活に欠かせないものではなく、家計が逼迫すると一番に切り捨て
られる要素のものばかりである。
でも精神的にはどうだろう。人はパンのみに生くるにあらず。
お金もかかり、生産性もなく、趣味の延長のようなものだけど人間には絶対に必要。
だからこそスポンサーが必要なのだといったら殴られるのかな。
でも、そういうもんだと思うのよね。まぁスポンサーの御眼鏡にかなうかどうかだけど。
この本に出てくる「佛々堂先生」は風来坊のようで、飄々とした関西弁を操るひと。
浮浪者(って言ったらいけないのか?)のようにワゴンにごみのようなガラクタや
沢山の衣装袋のようなものを詰め込んで移動している。
そして、行く先々で自分の御眼鏡にかなった芸術家に遠回しな助けを施すのだ。
ワゴンの中はゴミに見えてその実お宝がどっさり。
それに大阪にある先生の屋敷はまるで美術館のようであり、骨董屋のようでもあるが
そこで節句の遊びを催し、客人が4日間で4千人も訪れたりする。
その確かな目によって先生の息が少しでもかかったとなると、その芸術家は出世し
店は繁盛する、と、まるで魯山人のようである。
ただ魯山人はその性格がキツすぎて周りに敬遠されていたが、この先生はチマチマと
したところがあって実に憎めないかわいらしさがある、という書かれ方。
美術家の大家や骨董商の大店でさえ一目置く風流人、という設定だ。
とくに謎解きの要素があったりするわけではないのだが、こういう人がいてこそ
文化は継承され、発展していくのだと思うけれど、どこかにいるのかしらねぇ?と
溜息つきながら羨ましく読了したのだった。
勝手にキャスティングは故・二代目桂枝雀師匠。