牛のように反芻すべし

あれから数日経つが、いずれこうして感想を書くために舞台を反芻する。
ニットの芝居、タンツのファイナル。どちらも素晴らしかったなぁ。
ニットは、本当に複合芸術を目指しているのかしら、と思うほどにファンタジーさが
舞台ごとに増しているこの頃である。
穿って言えば物語の底辺にあるものがシンプルなだけに装飾を施しているというか。
かなり過剰なまでの装飾なのだ。でも、このわからなさがきっといいのだろう。
私はニットの草創期からのお付き合いなので変遷具合も理解している。(つもり)
進化なのかどうかはわからない。最初からそうだったとも言えるしそうじゃなかったとも。
でも、もともとは書割を前にしたセリフ劇に軸足があったように思う。
それがもっとフィジカルな方向へとシフトチェンジしてきたのだ。
今回、佐藤氏の振付を多用していた。もちろん以前からも、特に前作においては
全員がダンサーとしての訓練を積むように練習を重ねただろうと思う。
身体のキレも抜群に良かったし、コンテンポラリーの手法はニットに合ってると思う。
あの、感情が先立つ動きの派生方法は刺激も多いはずだ。
なんたって(動く側が)自分で創りだすことも多いしね。
けれど、それによってなのかどうかわからないが、物語の一番の芯が見えにくかった。
テーマなどは汲み取れるつもりでいる。
でも、動きを邪魔だと思ったのは今回が初めてで、そんな自分にびっくりした。
そのことが自分ながら疑問で、ず〜っと考えていたのだが。
今のところ見えた結としては「ダンスに寄りすぎた」とでも言えばいいのか。
ダンスを踊る?動く?どちらにしてもそちらへの神経の行き過ぎ、かも。
もちろん脚本があり、ちゃんとしたテーマがあるのだからそれは伝わるし読み取れる。
そして様々な感情が沸き起こり、揺さぶられ、また反芻もする。
でも、見たいのはダンスじゃなくて芝居、という感じかな。
タンツは。
レベルも高いし、技術も半端ない人が沢山で実に面白く飽きずに楽しめた。
でもリツコ劇場でなかったのがやはり残念だったところ。
せっかくのファイナルだったのに。
それに、こちらは自分の畑でもあり見る目も違う。
「誰が踊っているか」やはりその一点に集中してしまう。
作品の構成や振付そのものを見て勉強させてもらおうと思ってはいるのだが
どんなに技術が素晴らしくても飽きるときは飽きるし…ねぇ。
こればっかりはやっぱり上手い下手は関係ないのかも。
心の叫びそのものが見える踊りは観ていて楽しいし感動的だ。
これは本当にシンプル。シンプルゆえに難しいのかしら。
きっとそんなことはないはずだと思う。
あてがわれた振付を踊ろうとするから踊れなくなるんだよね。
あてがわれた振付「で」「自分が」「踊る」んだから。
…とまぁ、見るは易し、やるは難しなんですけどもね。