総合芸術化

ニットキャップシアターの新作「少年王マヨワ」をアイホールにて観劇。
前回、このホールを使ってやった作品は「さらば箱舟」だった。
寺山修司の戯曲を元にごま氏が演出を施したものだった。
あの四角いホールのド真ん中に穴が開いているような客席配置のお蔭で
見る、ことが視るになり、観ることになった。観ること即ち覗くこと。
覗き込むような視線動線が何とも不思議な異空間を創りだしていたと思う。
さて、今回はどうなっているだろう。
その空間づくりも期待して雨の降る中アイホールへと足を運ぶ。
今回のマヨワは古事記がベースになっているらしい。
マヨワは「目弱」という漢字を当てはめているという。
詳しい話はニットのHPに譲るとして(ていうか説明めんどくさい)
まるでシェイクスピアハムレット」と同じような構図だ。古事記で。
もしかしたら古事記をもとにしたのか?シェイクスピア
ごま氏はそれらをどのように料理するのだろう。
ホール内へ入ると舞台の奥には団地。もちろんそう見えるようにしてある美術だが。
団地を横から見たような形になってAからKまでアルファベットがふってある。
再演を果たしコンプリート感が増した「ピラカタノート」の系譜か。
団地と見せかけた衝立様の美術は前回作「Strange」を彷彿とさせる。
様々な人が住む団地。それぞれにそれぞれの営み。
悩みも苦しみも楽しさも嬉しさもごっちゃになった空間。
ごま氏がそういう空間をこの上なくいとしいと思っていることが伝わる。
差し挟まれる話はいちいちグロかったり辛辣だったりするけれど
団地という空間、または枚方という土地そのものの体感のようなもの。
清濁併せのむ、と言う表現が正しいかもしれない。
混沌とした世界、生も死も、性別もすべてが混沌としている世界。
今回はニットのメンバーだけではなく他の劇団からも出演者がたくさん。
それに振付をしているのは佐藤健大郎氏だ。
団員のみんなと佐藤氏の関係も深くなってきているのだろう。
色んなことがスムーズに行われていた。恒例の楽器演奏も。
もちろん音響には王子が携わっているのだが、舞台上での効果音みたいなのは
実際にそこで演奏したりハミングしたり。あ、もちろんメロディはナシで。
楽器と言っても、どれも民族音楽系ではあるのだが、今回はチューバまでも!
それに「一人くんち」的なものもあったし。
語り部役というかおじいさん役というか、それは市川さんがやっていたのだが
佇まいは女の子のまま、でも声色をおじいさんぽく、そして出身の鹿児島弁を
見事に駆使していて、その嘘じゃない方言の響きが胸を打つ。
それから「ツブラ」役の森田さん。肢体が不自由でいらっしゃる。
多分片足は義足だ。背も低い。誤解を恐れずに言うと一種異様ではある。
しかし、それがいいのだ。とても、いい。
そう、街には手足の不自由な人もおれば目の見えぬ人、耳の聞こえぬ人もいる。
一見、普通に見えても身体の中で不自由を抱えている人も多い。
そういう人がその空間にいるということが普通のことなのだ。
だって団地だもの。いろんな人の集合体だもの。
役柄的には団地の子ではなく地元の農園を営んでいるお屋敷の子(うねび)なのだが。
そのちょっと離れた立ち位置も子供の世界としてリアルだ。
そしてそのツブラという役柄、この芝居ではあの世とこの世の境目に立つ巫女的存在。
それが実にはまっているのだ。宿神を目指す私には悔しいほどに。
言い方に配慮が足りなかったらごめんなさい、やけど。
その肢体が武器になると思った。実に実に巫女だった。
マヨワが主人公、かもしれないが、その兄も、その父も、そしておじいさんも、ツブラも。
全ての人がすべてのエピソードにおいて主役だった。
カオルくん、ヒカルくん、そして亡霊の父。
森?林?丘に向かっていく途中の、本来なら雑木林なんだと思うけれど
その場面でのフラシモノはとても美しかった。
自然との共生というよりは自然を犠牲にして自分達の営みがあるというテーマだと思う。
終演後に記入するアンケートに「今回は動きすぎじゃないか」というようなことを
書いてしまったのだけれど、そのことについてはまた後日の機会に書きます。
残念ながら関西での公演は終わってしまいましたが、近く東京公演があります。
行ける人は是非。っつっても遠いよな。うん。やっぱりごま氏の創るものは好きだ。