……(自分への覚書)

つまるところ、結局は何となくやれてしまうのだろう。
でも、あくまでも何となく。それでいいのか。…いいならいいけど。
今回は私が主催の舞台ではないため無闇に手や口を出すことはしない。
でも胃がチクチク痛むのだ。言葉を飲み込んでいるせいだろうか。
照明合わせに衣装が必要なのは、スタッフさんの為。舞台を使う側の最低の礼儀。
そこに間に合わせることができないのは作者、出演者の怠慢というほかない。
もちろん作品にしてもそうだし。余りにも責任感がなさすぎやしないか。
基本的な方向性が違うのかもしれないけれど、このいい加減さは目に余る。
何より、この先、もしかしたら舞台の主役となって行く若い子達に
それでいいという意識を植え付けてしまいかねないことに危惧を覚える。
板にのる人間が偉いのではない。それもまた歯車なのだ。
舞台にはそれはもう沢山の人間が関わっている。
それぞれに役割があり、どれが欠けても歯車はうまく回らない。
その歯車を最初に回す人間のヴィジョンが全てではなかろうか、と思う。
どういう舞台にしたいか。誰の、何のために舞台をやろうとしているのか。
ヴィジョンがあってこそ手となり足となって動いてくれる人間の役割が
はっきりし、また動く人間も迷いなく動けるのだろうと思う。
少なくともうまく回そうと思えばトップダウン方式にせざるを得ない。
けれども先頭に立つ人間一人が走っても何もできない。
逆の場合はできないこともないけれど、それでもその中に仕切る人が必要になる。
お互い様なのだ。お互い様だからこそ自主性が必要だと思う。
参加している意識を持とうと思えば制作側は情報を流し、情報を収拾する。
それぞれが自分の責を果たそうとし、でも何か対処のできないことができたら
トップに進言すればよい。きっとそれを得意とする人がどこかにいるのだから。
そういう人脈を掴んでおくことがトップにとっては大事な仕事なのかもしれない。
好意に任せるには限界がある。かといってギャラをペイするのにも上限がある。
となれば、なにをもって人は動いてくれるのだろう。
単に指示を待つのではなく、自らが動き出すにはどうしたらなるのだろう。
参加している、という意識。自分が回さないと、と思う気持ち。
そんな自由で自立したグループにはどうしたらなれるのだろう。
もちろん性格もあるし、全員が全員そう動けるわけでもない。
それぞれに得意分野というものもあれば苦手もある。
けれども舟を漕がず乗っているだけの人間は、いずれ居心地が悪くなるだろう。
すべてが全てではないけれど、少なからず勢いだけの舞台を経験してきて
イワークスとして半分冗談のようになっている2年前からの制作、創作には
大事な舞台を勢いだけにはしないでおきたいという強い信念に基っている。
ま、出演者にはなかなか負担も大きいと思うのだけれど。
でも絶対にあっという間に終わって何か訳わからんわ、というのはないはずだ。
上手くいくとか、上手くいかなかったとか、そんな事はいっぱいあると思うけれど
ある程度、燃焼した〜と思えるはずだと…我田引水すぎでしょうか。
本番まであと少し。平常心、平常心。南〜無〜。