ライフワークとして

さて、今日こそは!と思って朝、布団をはねのけて起き上るのだが。
なかなかノらない作品創り。むぅぅ。
理由は…わかってます。このノリ好きやないねん。
発表会やもの。アクセントは絶対必要やねん。意味の有無は関係ないの。
…とは思ってみるものの、なかなか向かえずにおります。ちっ。
しかし予定的には今日何とか決着せなあかんので、これ書いたら頑張るし。
今日は朝から阪神淡路大震災の関連ニュースが多数。
確かに17年前だったんだなぁと思うけれども、もっと昔の事のような気もし
また、当日の事は昨日のことのように鮮明だったりする。
直接の被害を受けていなかった私でさえこんな感覚なのに、当事者は風化など
するわけもなく、きっと何年経ってもリアルに思い出されるのだろう。
けれどもあの日から時は巡り、あの日に住んでいた叔母の家はもう人手に渡り
叔母もいないし、私もSJCには在籍しておらず、しかも結婚して子供がいる。
時は確実に移り変わっていくということだけがまごうことなき真実のよう。
諸行無常。禍福如縄。コインの表裏。明日は命知れず。メメント・モリ
どう考えても私のライフワークはこちら側だと思う。
いやぁ、そうしておきたいのだ。そういうことにさせてください。
こっち側の思考が肌に合っているのだ。
でも今朝、117遺族の方の番組で語っておられることを聞いていたら
たとえばそんな方を前にして自分が手掛ける舞台を見ていただくことになったら
…と考えたら、なかなかに難しいものがあるなぁと感じた。
当事者には当事者にしかわからないことがあって、それは同じような体験を
してきた人でないと共感できないというか、受け入れてもらえないのでは?と。
もちろん解った風な感覚で、決して高みからものを言っているような作品を
創っている気は毛頭ないけれど、「当事者ではない」という感覚はぬぐえない。
人を励ますことができるのは一体なんだろう。笑いだろうか?
いつまでたっても傷が癒えることはないかもしれないけれども
少しずつでもマシになっていくのは時が経つということだけかしら。
そんなことより「励ます」とかいう感覚自体がおかしいのでは?と。
思考はどんどんとあらぬ方向へ沈んでいく。
違う。私は自分がやりたいことをやっているだけにしか過ぎない。
そうやると決めた。やりたいことだけをやっていくと決めたんだ。
それこそが私のライフワークである。「祈る」ことを踊りにする。したい。
究極の趣味であろうとなんであろうと、私はそれしかやりたくない。
…やりたくなくてもやるのが仕事ですっ。さー仕事しよ。